やねうらストーリー

東京で働く人の、頭の屋根裏にあるこぼれ話

パジャマな日本

アメリカでの一年目が終わって、日本に帰ってきた。電車のホームとかコンビニ菓子とか自分の部屋の匂いとかが、懐かしい。

 

冬に帰ってきたときに感じた息苦しさは消えていた。前回は、どこに行っても見かける同じようなメイクをして同じようなお洋服を着たお姉さん達とか、刺激がなさすぎる平和な空気とかが我慢ならなくて、自分はここには馴染めないという違和感から早くアメリカに帰りたくてたまらなかった。

 

今回は違う。日本の安定した社会が心地よい。同じようなお姉さん、同じような毎日、同じような会話がいかにも日本らしいな、と思える。アメリカにいることに慣れて、日本を一歩引いて見られるようになったのかもしれない。冬には「私はここにいるべきじゃない」と叫び出したくなるくらい毎日が嫌だった。今は、素直に「私はここにいるようにデザインされているんだ」と認められる。同じような顔、同じような身長。使い慣れた言葉に内輪ネタのジョーク。私は生まれも育ちも日本だから、なんのギャップもないかのようにすんなりと周囲にとけ込める。

 

日本にいると、まるで着古したパジャマを着ているようだ、とふと思う。パジャマは着心地がいいし、動きやすい。ほつれた部分もあるしもう何年も使っているけれど、だからこそ愛着があるし、何より着ていてらくちんだ。

 

でもパジャマだけを着続けている限り、人は本当の姿を表すことはできない。古いパジャマに愛着はあっても、そのパジャマはあなたの趣味とか体型とか、個性と言われる部分を完全に表しはしない。同じものを着続けて、同じ場所に居続けて、それでは個性の発揮のしようもない。面倒くさくても怖くても、自分の好きな服はどういうスタイルだろう、値段は高いけどあのブランドの服に挑戦してみようか、そんな気持ちで外行きの服も選ばないと、人はいつまでたっても変わらない。そしてそういう服とパジャマが合わさった時、ワードローブは人の本来の姿を表現するんじゃないだろうか。

 

アメリカにいると、私は勝負服を着ているかのように毎日ぴんと背筋をのばしている。だらけていると、負ける気がする。一人の大人として扱われるから、周囲から自分はどう見えているのか管理しなくては、そして自分が何をしたいのかきちんと理解していなくては、という意識が働く。

 

今回の帰国が前回と違うのは、私が外行きの服を手に入れたからだと思う。日本は心地よいけれど、ずっといる場所ではないと分かったから、そしてアメリカで過ごすことで自分の中身が成長したから、心地の良い場所にいてももうだらけることはない。ここにいると怠けてしまうという危機感を日本のせいにして「パジャマなんておしゃれじゃないから嫌い」と叫ぶのではなく、素直に「パジャマって楽だ」と認められるようになった。

 

帰ってくる前は日本で過ごす夏に乗り気じゃなかったけれど、今なら大丈夫だと思う。しゃんと背筋をのばして、日本で成長してアメリカに帰りたい。

 

 

 

ちなみに。姿勢に気をつけていた結果、家で測ったら身長が2cm伸びていた。内面にも外見にもしゃんとすることはプラスらしい。中高の時の伸長率から考えると奇跡のように高くなった身長を生かす新しい服が買いたい。