やねうらストーリー

東京で働く人の、頭の屋根裏にあるこぼれ話

大人になる

まだ高校生だった頃、自分がいつか大人になるなんて思ってもみなかった。いつも目に見えていたのは目の前のその日かせいぜい一年先、長くて大学受験までで、将来のことは将来の自分がなんとかしてくれるだろうと思っていた。

 

10年が経った。

 

学生だった頃に毎日通った渋谷の東横線のホームはなくなり、109に服を買いに行くことも、池袋で友達と割り勘してプリクラを撮ることもなくなった。実家の私の部屋は空っぽになり、壁に貼っていた「大学合格」の紙もなくなった。溺愛していた犬は天国に行った、最後まで可愛いままで。そして私は立派な大人と呼ばれる年齢になった。

 

長い年月を生きるからといって人は大人になれるわけではない、ということには大学生活の途中くらいで気が付いた。世の中には子供のままの大人が多すぎる。意識してなりたいと思わないと大人にはなれないと気づいてから、実際に少しでも成長したと思えるまでには長い時間がかかった。その頃は、何事をするにもどうしたらいいのか分からない自分が歯がゆかった。落ち込む友人にどんな言葉をかけたらいいのか分からない、将来の計画をどう立てたらいいのか分からない、彼氏と結婚すればいいのかどうか分からない。何を基準にしたらいいのかさえ分からない。それでも失敗はしたくなくて、後悔を絶対に避けたいと思っていた。今なら、後悔のない正解ばっかりの人生はなかなか難しいと分かるし、自分がどんなに気をつけたって人生に災難やサプライズはつきものだと分かる。

 

自分で考えてした選択と、その結果によって変わっていく人生を受け入れて生きていくことで、人は少しずつ大人になるんじゃないだろうか。ある年齢を界にいきなり大人になるのでも、結婚などのイベントを経ていきなり大人になるのでもなく。連続する小さかったり大きかったりする決断を日々重ね、間違いから学び、時には休み、生きていく毎日が人を大人に近づける、のだと思う。

 

失敗を恐れて完璧な人生を求めていた過去の自分には申し訳ないが、今の私の人生は完璧にはほど遠い。でも、めちゃくちゃではない。10年前の自分が「わあー!」と目を輝かせるような部分もあれば、「そんなはずじゃなかったんじゃないの。。。」と失望させる部分もあると思う。それでも間違いなく私は10年で確実に大人になっている。これからも、おそらくなっていくと思う。変わったものは多々あれど、変わらないものはうっすらとした未来への希望であり、これを握りしめている限りなんとかなる、と信じたい。

 

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

私の推し、カワウソ

私には「推し」がいる。

 

元々私はそこまで何かに入れ込むタイプではなく、芸能人や好きな映画や本のキャラクターも割と距離を保って見ることが多いのだけど、この「推し」に出会った瞬間に心を射抜かれてしまった。心がとろけるとはこのことか、といまだに見るたびに思う。

 

私の推しは、カワウソのキャラクター、「可愛い嘘のカワウソ」だ。人でもなく実在もしないイラストのカワウソちゃん(多分男の子)に、私は日々心を癒されている。

 

以下埋め込みツイートでご紹介するのだけど、悶絶する可愛さなのでぜひ大きくして見てみて欲しい。

 

 

 

 

動物のイラストをメインに活動するLommyさんの描くカワウソちゃんはフォロワーが11万人もいる大人気者で、グッズや本もたくさん出ている。LINEのスタンプも13弾まで出ているほど人気だ。

 

カワウソちゃんは可愛い嘘をついたり、公園で友達と遊んだり、美味しいものを食べたり、クリスマスを祝ったり、強がって嘘がバレちゃったり、毎日を楽しく過ごしていて、本当に屈託がない。にこにこ笑うカワウソちゃんを見ていると、私も元気になる気がする。何より、なんというか、カワウソちゃんを見ていると、「この世には本当に純粋に良いものってあるんだな。。。」という気持ちになる。それはあったかくて、幸せで、晴れた春の昼下がりに窓辺で昼寝をしている時のような気持ちで、この世界の美しさを信じる子供の眼差しを取り戻すことで、至福以外のなにものでもなくて、私はカワウソちゃんを見るとその気持ちを思いだす。

 

カワウソちゃんの丸い背中とか、ちょっと短い手とか、表情豊かなまゆげとか。イラストなのは分かっているけれど、絵の中のカワウソちゃんの世界は、そしてそんな世界が想像の中でもいいから存在するという事実は、私を癒してくれる。

 

大好きすぎて本もラインのスタンプも買ったし、江ノ島水族館に一人で行ってグッズもたんまり買い込んだし(なんかテンションが上がっちゃって売り場の写真も撮った)、これを書いている今もカワウソちゃんのTシャツを来ている。それくらい好きだ。

 

心がめちゃくちゃに弱っていた今年の半ば、アメリカに引っ越す時には、カワウソちゃんの本をキャリーバッグに入れて持ってきた。カワウソちゃんの世界は、私を守ってくれるお守りだった。作者のLommyさんに心から感謝を伝えたい。本当にありがとうございます。

 

これまで「推し」の意味があんまり分からなかったけど、カワウソちゃんが幸せになるならなんでもしたいという気持ちになって、初めて、ほんのちょっと、「推し」を熱烈に支持する人の気持ちが分かった気がした。

 

この記事には特に結論はなくて、ただカワウソちゃんが好きだってだけなんだけど、好きを叫びたくなったので書いた。いつもありがとうカワウソちゃん。

「Joy Luck Club」を読んだ

中国系アメリカ人の作家Amy Tanの「Joy Luck Club」は1950年代のサンフランシスコを舞台とした小説。中国から様々な苦労を乗り越えてアメリカに移民してきた母たち4人と、彼女らがアメリカで産んだ4人の娘が交互に自分の物語を語る構成になっている。

 

タイトルの「Joy Luck Club」は、サンフランシスコで知り合った母たち4人が付けた自分たちのグループ名。4人は定期的に集まり、麻雀をしながら中国での思い出話やら娘の自慢やらいろんな話に花を咲かせる。お話は4人の仲間のうちの一人が亡くなり、その娘が麻雀テーブルの一角を引き継ぐところから始まる。

 

日本で生まれ育ち、かつアメリカでもある程度時間を過ごした身としては、母たちと娘たちの視点両方に共感する部分が多く、読んでいて面白かった。母たちはアメリカでこそ移民として扱われ、たどたどしい英語で日々の生活にも苦労しているけれど、実は祖国で壮絶な状況に直面し、必死の思いで強さを身につけアメリカまでやってきた過去を持っている。一方でアメリカに生まれたのにどうしてもアメリカ人になりきれない娘たちは、中国式の考え方を押し付けようとする母たちに反発しながらも自分のルーツを現代アメリカで探る。

 

往往にして、人のバックグラウンドや隠し持った過去というのは他人には分からないものだ。家族でさえも。この小説における娘たちも、自分らの母の過去を知らない。どんな思いで父と結婚したのか、なぜ母がアメリカに来たのか。同時に母たちも、娘が感じているプレッシャーや苦労を知らない。恵まれた環境にはあるものの、彼女らは両親が払った犠牲や自分に対する期待に応えないといけない、完璧でいないといけないというプレッシャーと戦っている。一人一人にそれぞれの考えがあり、互いにかける期待はすれ違うこともある。それでも歩み寄ろうとする時、そこには相手の意思を尊重する気持ちと愛情がある。戦争の影やアメリカで生きることの苦悩も描きつつ、根底には母娘の絆みたいなものを描いているせいか、どこかポジティブさが残る読みやすい本だった。

 

構成がシンプルだし色んな視点から話が進むので面白く、こういう「複数の視点が絡まって太く長い話になる」タイプの小説が好きな人はとても好きだと思う。王道のベストセラー、って感じだ。あと私だけかもしれないけれど、アジア系アメリカ人の人の書いた英語はとても読みやすい気がする。この本も例外ではないので、英語で読書したい人におすすめの一冊だ。

 

もう一度ただいま

数年の時を経て、アメリカに帰ってきました。すごく、すごく、嬉しいです。

 

勢いをつけるためにこないだ観て面白かった「プロミシング・ヤング・ウーマン」の感想を先に投稿したのですが、やっぱり久しぶりに帰ってきたので近況アップデートを書きたいと思います。

 

灯火」を書いたのがもう既に一年ほど前になってしまいました。あの時書いたように、2020年は結構私にとっては辛いことが続く年でした。実はその前の2019年も、さらにその前の2018年も。大学を出るまでのほほんとし過ぎていたのか、もともとのんびりした性格だからなのか分からないのですが、なかなか現実社会に馴染めず、朝起きて仕事に行って、頑張ってパソコンに向かい、深夜にぼろぼろになって家に帰る日本のサラリーマンの生活に疲れ果ててしまい、ついには日記すらも書けなくなったのが2021年半ばでした。

 

灯火」では「幸せになりたい」という気持ちを忘れないようにしたいと書いたのですが、正直「こんな生活じゃ無理だよ」と自分で分かっていたのも事実でした。崩れ落ちる生活の中、会社が非常にフレキシブルで制度が整っていたのが幸いし(ライフスタイルだけバランスが難しいのと、仕事内容があんまり自分に向いていなかった)アメリカの別部署に期間限定で転勤してきました。

 

新しい職場はそこそこ楽しく、新生活も落ち着いてきたので、ブログを書く心の余裕が数年ぶりにできました。振り返ってみると、この数年間は、自分を出来るだけ無にして過ごしてきたように思います。周りに馴染みたいという気持ちが強かった私は、仕事が向いていないかもしれないと感じながらも好きになろうと努め、日本社会は本当に若い可愛い至上主義だよなと思いながらもメイクに努め(周りに比べたらだいぶ適当ではあったと思いますが)、週末は仕事を理解するために新書やらビジネス本やらを読もうと努め(全然頭に入っていなかった)、完全に自分をすり減らしていきました。辛いのは自覚していたのでなんとか解決しようとしていたのですが、如何せん生活の全てが問題だとどこをどう直したらいいかも分からず、仕事を辞めても次を見つけるエネルギーが自分にあるように思えず、だんだん心は枯れていきました。とりあえず仕事と一人暮らしの家があり、お金に困っていなかった自分が辛いというのは贅沢を言っているようで憚られて、自分に「もっと頑張りさえすれば」「もっと仕事が好きになれさえすれば」と言い聞かせ続けたのもプレッシャーとなっていました。

 

アメリカに引っ越してきてから、数ヶ月間で、私はみるみる回復しました。仕事が早く終わるので、平日に自分の時間が取れるようになり、自炊する余裕ができました。なんとなく感じていた「結婚・出産」へのプレッシャーも感じなくなり、のびのびと将来をイメージする余裕ができました。そして本を読んだり、映画を読んだり、それらの感想について思いを巡らせる余裕もできました。一番よかったのは、自分の本音を誤魔化さなくて良くなったことだと思います。別に誰かに何を言われているわけでもなく、私が個人的にそう思ってしまうだけなのですが、日本に物理的にいるとどうも私は自分の本音を言ったり感じたりすることに抵抗を感じてしまうようで「これを言ったら引かれてしまう」「大人しく愛想笑いしておかないと」「そんなの常識はずれ」と自分で自分に制限をかけてしまい、知らず知らずのうちに疲れていることが多々あったように思います。これも「気のせいかもしれない」「誰に何を言われたわけでもないのに」と自分で自分に言い聞かせていたのですが、やっぱりアメリカにきて元気になったのでもう自分を誤魔化すのはやめたいと思います。日本の本や映画、人、文化や温泉など好きなものはたくさんあるのですが、少し遠くにいるのがちょうどいい距離感のような気がします。

 

ただ、この数年間苦労した分、学んだことも多かった気がします。頑張りすぎてはだめ、と身を以て感じたのは大きかったです。これまで多少無理すれば何とかなる場面が多かったり、もともと勉強が性に合っていたりしたことから、いわゆる「これが正しい」といわれた事をひたすら頑張るスタイルで生きてきましたが、自分がただ無理するスタイルには限界がありました。周りが望んでいるから、これが一番波風が立たないから、という道を歩んでいると自分に限界がきてしまう。そしてそれは賢いようでいて自分で自分のために選択する事を放棄した歩き方でもあったんだと身を以て感じました。自分の描く理想を実現する事と現実的な生活を守る事と、バランスを取りながら選択を重ねていくことをしないといけない。まだまだ経験不足ですが、早くそれを楽しいと思えるようになりたいなと思っています。

 

アメリカでは、まず心身の健康を守る事を第一としつつ、人間に戻っていきたいと思います。無の状態を脱したいです。少しずつ本を読むなどリハビリはしているのですが、この調子でもっと分厚い本や真剣なテーマに向き合いたい。そしてそれを形にしたい。人間らしい生活を送り、人間らしく芸術に触れ、人間らしく毎日を過ごしたいと思っています。

「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観た

映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』キャリー・マリガン

 

ポスターの見た目から、可愛い女の子のパワフルな復讐劇で、割とお決まりなパターンのハリウッド映画かと思っていた。完全に裏切られた。

 

この映画は非常にネタバレセンシティブなので、なかなか内容を書けないのだけど、主人公の背景も、周りの人々も、起こる出来事も、あまりにリアルで、だからこそ重く、暗くて、衝撃の強い作品だった。

 

www.youtube.com

 

予告編で分かる部分だけで説明すると、主人公のキャシーは、将来を渇望される前途有望な医学生だったものの、とある性暴力事件に関連して中退し、現在はカフェでバイトをしている。バイトの傍、毎週末バーに出向き、立てなくなるまで酔ったふりをして、その弱った状態につけこもうとする男が声をかけてくるのを待つ。男は大抵優しくするふりをして、泥酔状態の(ようかに見える)キャシーに僕の家で休憩しようよ、と言う。キャシーは男の家までついて行き、レイプされそうになったいよいよその時、しゃきっと目を覚まし、「今、お前は何をしようとしていたのか」と問い詰める。。。

 

と言うような感じなのだけど、まず、全体的にトーンがすごく居心地が悪くなるように作られている。キリキリしたバイオリンの音とかが緊迫した場面で流れるのももちろんそうなんだけど、明らかに画面では異常なことが起こっているのにアップテンポのポップソングが流れていたり、キャシーが何を考えているのかいまいち掴めなかったり、こう、「ああ今こういうことが起こっているんだな」と一瞬たりとも安心できない感じがある。あとはテーマがテーマだけに、常に坂を転げ落ちるように物事が悪くなりそうでならない、ギリギリのバランスで物事が進んでいくので、全然先が読めない。

 

このギリギリのバランスというのは、観ている人を釘付けにするためだけではなくて、狂気と平気を平行線で描きたいという意図が製作者の側にあったからこそなんじゃないかと私は思う。この映画はキャシーによる復讐を描いているけれど、往々にして怒った女性というのは「ヒステリア」「狂気」「怪物」などといった「正気を失った」状態として扱われる。映画や文学の世界でもそうだし、実生活でもそうだ。正当な理由で怒っているのに「ヒステリーをおこしている」と言われて、さらに怒りが募ったことのある女性は少なくないはずだ、と思う。その点この映画では、キャシーは一人の人間として描かれている。過去の出来事に怒り狂ってはいるものの、ふと冷静になったり、自分の復讐が行き過ぎていないか迷ったり、またアクセルをかけたり、と、いったりきたりしながら物語は進んでいく。そこがすごくリアルで、かつ先が読めないハラハラ感に繋がっている。

 

もう一つ、この映画で非常に特徴的なのが音楽だ。明らかに意図的に選ばれた、アメリカの女性シンガーによるポップ・ミュージックの数々がただのBGM以上の意味合いを持って映画の随所で流れる。特にBritney SpearsのToxicは日本でも知っている人が多いんじゃないだろうか。若い女性だからという理由で本人の意図と関係なくセックス・シンボルとして祭り上げられ、最終的には精神を病んでしまった彼女の歌はこの映画とマッチしていて、こういう話は映画内の話だけでなく現実の問題であるということを突きつけてくる。

 

現実社会への憤りが増すと同時に、こういう映画が作られる時代に生きていてよかったなとも思った映画だった。決して楽しい映画ではないけど見て後悔はしないと思う。おすすめしたい。

灯火

「ただいま」の記事を書いてから、ちょうど一年ほどが過ぎました。

 

実はここしばらく全く前進していない気がしてちょっとへこんでいたのですが、前回の記事を読み直すとこの一年で自分は激変していて、まあ変化があったと言うことはちょっとは前進しているよな、と思ったりしました。

 

2020年はいろんなことがありましたよね。大変なことが色々とあった、その中でそこまで生活自体に影響を受けていない身としては、辛かった、と言うのは少し憚られるところもあるのですが、でも、私なりに、2020年はものすごく辛かったです。家から出られない春と夏で、色々なことがぐしゃぐしゃに壊れていって、これまで大丈夫だと思って無視してきたことが実は大丈夫じゃなかった、それがコロナの間接的な影響でもろに明るみに出てしまった感じがしました。秋と冬をかけて騙し騙し休みつつ、新しい生活に慣れていく、そんな一年でした。

 

大丈夫だと思って長らく無視してきたことを直視せざるを得ないというのは、なかなか辛いもので、でもこれをもっと長いこと無視し続けていたらと思うとぞっとする部分もあり、まあやっぱり引っ越したり転職したりする中でここ数年は頑張ってたけどストレスはどんどん溜まっていたよね、と改めて思いました。

 

頑張っても頑張っても光が見えない中で、どうやって前に進んだらいいのか分からなくて、そんな時期がしばらく続いた後、やっとかすかな光がさした気がしたのが2020年の終わりでした。でももう頑張り続けた分、疲れてしまってもいて、2021年もそこまで頑張れるか分かりません。思えばこれまで長いこと頑張り続けてきた気もします、小さい頃からずっと。そろそろ新しいスタイルに変えないと、このまま維持できないような気もします。

 

守られることが当たり前だった時代から、自分一人を守るので精一杯だった時期を経て、今やっと、頑張れば誰かを守れるくらいに強くなれたんじゃないかな、と思います。紆余曲折もありつつ、傷ついたりもしつつ、経験を積んで。でもその力に任せて自分をないがしろにしていたら、ダメになってしまいそうな気がするので、今一度自分に集中しないといけないと思います。まだ私は誰かを守る責任を実際に負えるほどには、土台が出来ていない。何ができるか、と何がしたいか、のバランスを見極めながらやっていかないといけないと思います。

 

辛かった日々の中で、一番はっと気づいて危なかったと思ったのは、「幸せになりたい」と思えなくなっていたことでした。「どうせこのままこんな日々が続いて死ぬんでしょ」と思っていて、いつからかはっきりとは思い出せないのですがそれが当然だとしばらく思っていて、でも一人になってふと考えてみたら、幸せになりたい、またはずっと幸せを維持したい、という原動力がなかったら、前に進めないよな、と。だから、2021年はできるだけ休みつつ、自分の中にやっとついた「幸せになりたい」と言う灯火を大事にしたいと思います。

「異形の愛」を読んだ

 

異形の愛

異形の愛

 

 

 カルト的人気を誇る小説「異形の愛」。原作のタイトルは”Geek Love”。 Geekという言葉は「オタク」という意味で現在は使われるけれど、昔はサーカスの見世物芸人でニワトリの首を食いちぎる芸人を指していた言葉らしい。
 
タイトルが示すように、この物語は移動式サーカスで見世物芸人をしている一家のお話。経営難のサーカスを受け継いだ団長のアル・ビネウスキは、新入りの娘リリーと結婚し、素晴らしいアイデアを思いつく。「生まれたままの姿で仕事ができる子供を作ればいい」と。母親が妊娠中にドラッグやら薬やらを大量に飲んだ結果生まれてきた子供たちは、5人ともほぼ両親の望み通り。長男はアザラシ少年(身体から直接ヒレが生えている)のアーティー、長女たちは腰から下が一体で、ウエストから上が二人に分かれたシャム双生児のエフゲニアとイフゲニア、次女は小人症で背中にこぶがあり、アルビノのオリンピア、そして末っ子は超能力者のチック。
 
家族の中で唯一自分の芸がなく、兄のお世話をすることが仕事になったオリンピアの口から語られる物語では、この一家の互いに対する歪んだ愛情と、子供たちが成長するにつれて面する苦難と家族の行先が描かれる。
 
この小説は登場人物のユニークさが一番特徴的だけど、突き詰めてみるとやっぱり家族の話なんじゃないかと思う。ビネウスキ一家はアメリカ中を旅しながら公演をしているけれど、ほとんどサーカスの中から出ることはない。わたあめの屋台、簡易な遊園地、走り回る子供。全く同じ風景を見ながら日々を過ごすこの家族は、狭い空間に閉じ込められ、この5人にしか通じない強固な価値観を共有して育っていく。でも次第にその価値観は兄弟それぞれの中で暴走し始めて、ついには全てを壊してしまう。家族というのは難しいもので、こうやって小さな空間で時間を共にするからこそ、バランスが取れなくて歪んでいきやすい関係性だと思う。それが特殊な環境下でどうなるかを描いた美しい物語だった。
 
私は英語で読んだけど、翻訳版も出ています。なんといっても文章が美しいし物語のテンポがよく(次から次へと予想だにしないようなイベントが起こる)読みやすいので、数日間全てを忘れて読書に耽りたい方におすすめです。