やねうらストーリー

東京で働く人の、頭の屋根裏にあるこぼれ話

婚約しました

気づいたら、最後の記事から三年余りが経っていた。この三年で、私の人生は根本から変わり、私と言う人間もほぼ別人になった。いや、元々の自分に戻ってきた、息を吹き返した、という方が正しいかもしれない。生き返って初めての春を、今、桜を見ながら味わっている。

 

この3年間の間に何があったのかを言葉にするのは、今はまだ難しい。でももっと難しかったのは、それまでの二十数年間の間に何があったのかを言葉にすることだった。私は、この3年ほどまるまるかけて、少しずつ、私の人生を指でなぞるようにゆっくりとたどり、それまで脳の奥に葬られていた記憶を光の元にさらし、言葉という形を与える作業をしていた。

 

人生の全てを一時停止することができると、それまでの私は、知らなかった。でもそれを経験した多くの人も、知っていたから一時停止したのではなく、走って走って足がもつれて、それでも走って、息が上がり、髪は乱れ、もう足を前に出すことはおろか体のどこにも力を入れることさえ出来なくなった時に初めて、そこに一時停止ボタンがあることに気づく。そして押さざるを得ないことを観念し、最後の力を振り絞って指を伸ばす。私もそうだった。

 

一時停止ボタンを押した後の日々は、静かで、穏やかで、守られており安全で、私はそんなことを人生で味わえると知らなかったので、最初は怖かった。だが当初の静けさが続いたのもつかの間で、のちに嵐がやってきた。これまた否応なしに、ごうごうと風が吹き、涙か雨か分からない何かが頬に吹きつけ、記憶が吹き荒ぶ日々が始まった。そんな中、私は毎日机に向かい、日記を開いて、何が起こっているのかを丁寧に書き続けた。書いて、書いて、書いて、もうこれ以上は書ききれないだろうと思った時に、ふと顔を上げてみたら、嵐はやみ、あたりは一面静けさに包まれていた。私は、ただ一人で、そこに立っていた。風もなく、走る必要もなく、たまにそよそよと風が吹いてほおを撫でた。初めて見る景色だった。

 

「現実を見ろ」と言われ続けていた私は、その時、初めて、本物の現実を見たと思った。嵐の中に現実があり、凪の中に現実があった。それは誰にも奪うことのできない、私だけの現実だった。私の体が、私の声が、そして何よりも、日記に残された私の言葉が、それを示していて、それを覚えていた。

 

抽象的な話になってしまい申し訳ないが、これ以上具体的な説明をするのは難しいし、言葉の間に何かが失われてしまう。遠回りだけれど、この過去3年間起こっていたことを伝えるには、今はこのやり方しかできない。

 

 

具体的にできる数すくない話の一つが、婚約だ。婚約は、思いがけないけれど、嬉しい出来事だった。彼は私のこれまでの人生のことをなんとなくは知っているけれど、細かくは知らない。曖昧な言葉でしかまだ言えていない。でも、それでいいと態度で示してくれる人だ。

 

砂漠を走り、荒れ狂う嵐にじっと耐え、やっと暗い空の間に晴れ間が見え始めた頃、ふと光がさす場所を見てみたら、この人がいた。そう説明するしかないくらい、突然私の人生に登場した彼は、あれよあれよという間にとても大事な人になっていた。

 

人の人生には、二通りの語り方があるように思う。社会の表面の言葉で語られる、エピソードの点を繋げたものとしてのストーリーと、その人の目にしか見えない、具体的に伝えるのは難しいが確かに存在する真実で紡がれたストーリーとだ。結婚は、社会的な制度であり、エピソードの点としてキャッチーで、一言で大体何が起こったのか、他人にも伝えやすく、理解されやすい。一方で、私にとっての結婚は、私の心にしか見えない大事な意味を持っており、この人の登場がいかに私にとって個人的に特別なものであったか、いかに嬉しい出来事であったかは、なかなか伝えづらい。でも、そこまで言わなくても、婚約したとだけ言えば伝わることが多いので、この場ではこの一点を書き残しておこうと思った。

 

これからも、書いて、書いて、書いて前に進んでいきたい。