やねうらストーリー

東京で働く人の、頭の屋根裏にあるこぼれ話

日本人ではなくアジア人であるところの私  

先日、キャンパス内で携帯を落としてしまった。あーあ、誰か拾ってくれてるといいな、と思ったら、たまたま友達といたところに大学のオフィスから彼の携帯に電話がかかってきて、「失くし物で届いた携帯にあなたからのメッセージが表示されているんだけど、心当たりはありますか?」とのこと。親切!彼がすぐに私のことだと気がついてくれて、電話を代わってくれた。電話の向こうのおばさまいわく、「んーと、待ち受け画面の表示は、中国語?みたいに見えるんだけど」とのことなので、「ああ、それは確実に私の電話です」と言って、後日受け取りに行きました。

 

いまいち関係ないような気もするんだけど、この出来事はアメリカに来るまでは考えたこともなかった人種というトピックを私に連想させた。ここにいてだんだん慣れてきたことなんだけど、私はアメリカでは日本人というよりアジア人だ。日本から来たことが関係ないわけじゃないんだけど、様々な人種が住むアメリカでは肌の色が最初に目に入ることで、だからやっぱり誰かと最初に話す時には、ああこの人はアジア人、黒人、白人みたいに見た目でざっくりと分けられてしまう。「見た目が9割」じゃないけど、人をある程度見た目で判断するのは当然のことなんじゃないかなと思うので、まあそんなもんだろうと思う。よくないのは見た目のみでしか内面を判断しないことで、それが差別にあたるんじゃないかと思う。

 

自分がアジア人、というのは、アメリカに来て最初の一年くらいはいまいちなじみがない感覚だった。第一私はアメリカで育ってないから、あなたはアジア人ですよ、とか言われてもピンとこない。下の画像のジョークも、面白いんだけどじゃあ自分がこういうアジア人のステレオタイプにすべて当てはまるかっていうとそうじゃないし、変な感じだった。

 (Finals Week: 期末試験期間 左から時計回りに: 教授、オタクたち、僕、そしてアジア人たち)

 

でも三年もいれば慣れてきて、数学が得意なアジア人、とか、時間に几帳面なアジア人、みたいなステレオタイプにもなじみが出てくる。「アジア人なのに成績やばいよ笑」みたいなジョークは典型的なやつ。個人を無視したステレオタイプを手に取って、笑いに変えるタイプのジョーク。

 

もちろん私はキャンパス内でほとんどの時間を過ごしているから、私が「アメリカ」という時には、ものすごい度量のバイアスがかかっている。人種なんてセンシティブな話をする時には、筆者のコンテクストをはっきりとさせる事が絶対だと思うので説明すると、アメリカのいわゆる「エリート」と呼ばれるような大学では新入生を選ぶ際に全体のバランスとか、多様性を非常に意識して生徒を選考する。だから私は誰かの手によって意識的に作り出された環境で日々を過ごしている。全米の人口においてアジア人は4%程を占めるのに対して、私の大学では15%がアジア人だ。このキャンパス内においては、14%いるヒスパニック人口よりも数が多く、白人の43%に次いでまさかの二番目に多いマイノリティ人種ということになる。だからだと思うけれど、私はこのキャンパスでアジア人だからといって引け目を感じたことや差別されたと感じたことは一度もない。キャンパスの外に出た時に、必ず「中国人?」と聞かれる時くらいにしか、ああ私はアジア人として他の人から見られているんだな、と意識することはない。だから上に書いた電話の内容がこのトピックを連想させたんだと思う。

 

キャンパスを一歩出ると環境は全く違って、最近ではアカデミー賞授賞式のホストによる人種をネタにしたジョークが大変な物議をかもした。リンク先はニューヨークタイムズの記事。

http://www.nytimes.com/2016/03/01/movies/chris-rocks-asian-joke-at-oscars-provokes-backlash.html

これは上に書いたような、「アジア人は数学が得意で几帳面」というステレオタイプを子どもに背負わせて、舞台上で笑い者にした出来事だった。三人のアジア人の子どもにスーツを着せ、ブリーフケースを持たせて、司会者のクリス・ロックは彼らを「アカデミー賞の投票の結果は彼ら、非常に優秀な会計士たちが計算します」といって紹介し、最後に「もしも誰かがこのジョークで気を悪くしたなら、彼らが作ったiPhoneでそのことをツイートしてね」というオチをつけた。司会者の黒人に対する人種差別をネタにしたジョークは絶賛されたのに対し、いや、他のジョークがよく出来ていたからこそ、彼のこのジョークは多くの人を残念がらせ、怒らせ、特にアジア人だからといってもらう役どころで日々差別を受けているハリウッドの役者たちから多くの反応を呼んだ。

 

アジア人として、私はこのジョークがニュースになった時に正直どう反応していいのか分からなかった。ステレオタイプを、ただのステレオタイプだよね、として扱うのではなく、最後まで押し切ったことには違和感があった、と思う。子どもをステレオタイプの担い手にして、ジョークのオチにした、そこは間違っていたと思う。彼らは一言もセリフがなかった。大人だったら、人種差別的なジョークのネタにされたあげく、口を開くことが許されない状況は明らかに人々の目にとっておかしく写ったと思う。このジョーク、司会者の意図としては、ステレオタイプをぎりぎりまで押すことで、見ている人にとって非常に居心地の悪い状況を作り出し、あなたは人種差別を無意識に受け入れているんじゃありませんか?って指摘したつもりだったんだろうけど、結果的にそういうステレオタイプに完全に乗っかっただけの形になってしまった。

 

とてもセンシティブな話題なので、正直どこまで何を言っていいのか迷っている。逆に言えば、今ここでこの話題を書くのに躊躇するということ、また、どう反応したらいいか分からなかった、ということが、私がどれだけこの問題にうとく、現実の認識が甘く、自分の意見をきちんと持っていないかを示しているとも思う。でも私の考えを正直に書くことこそがブログの意義だと思うのでとにかく書けるだけ書いた。無事にここで就職できたとして、ビザを手に入れられたとして、きっとこの問題はこれからもずっと考え続けることなので。