やねうらストーリー

東京で働く人の、頭の屋根裏にあるこぼれ話

オデュッセイアの力強さ

  

*この記事は他のブログで書いたものなのですが、こちらのブログにも掲載します。全く同じ記事を他のブログで見たら、盗用ではなく、同じ人が書いたものです。

 

 
オデュッセイアのことは、もちろん知っていた。言わずと知れた古典の名作だ。西洋文化をキックスタートさせた古代ギリシャの長編叙事詩。でも読んだことはなくて、ずっと読まなくちゃ、読まなくちゃ、と思ったまま手が出せないでいた。
 
怖くて手が出せなかった古典をついに読み始められたのは、新訳が出版されて、その評判がめちゃくちゃ良かったからだ。新聞や本屋、フェースブックのフィードにまで、その本は登場した。表紙のデザインがおしゃれで素敵な本だ。

 

The Odyssey

The Odyssey

  • 作者:Homer
  • 出版社/メーカー: W W Norton & Co Inc
  • 発売日: 2018/11/06
  • メディア: ペーパーバック
 

 

新訳は、イギリス人の研究者エミリー・ウィルソンによるもの。女性によるオデュッセイアの英語翻訳はこれが史上初だという。読みやすいという評判だったので、これなら私でも読めるかもしれないと思い、Kindleで買って一気に読んだ。
『イリアス』と『オデュッセイア』は古代ギリシャの詩人ホメロスによる長編叙事詩だ。二つはセットになっている。『イリアス』は、トロイア戦争のお話。続く『オデュッセイア』は、終戦後、英雄オデュッセウスが家へ帰るお話。
 
オデュッセイアの話の筋は簡単だ。英雄オデュッセウスは戦争後の帰路のあちこちで誘惑や困難に道を阻まれ、なかなか妻ペネロペイアと息子テレマキウスが待つ家にたどり着けない。だが彼は持ち前の知恵と腕力でそれらの困難を乗り越え、長年の月日を経てついに故郷にたどり着く。妻はオデュッセウスが死んだものと思っている村の男たちから毎日言い寄られているが、彼らを断り続けて最愛の夫の帰りを待っている。なんとか家に帰ったオデュッセウスはそれらの求婚者たちをやっつける。
 
読み始めて驚いたのは、え?こんなスピードで?というくらいにスイスイと読めることだった。叙事詩だけに章ごとの区切りは短く、エピソードが連なる形で物語は進んでいく。歌声を耳にしたら死んでしまう人魚との遭遇や、女神に気に入られて七年も彼女の洞窟にとらわれる話など、一個一個のエピソードが一話完結型になっている。ディズニーシーでシンドバッドの冒険のライドに乗ったことがある人はいるだろうか。あのライドではシンドバッドの冒険のシーンを再現した部屋を一つ一つ進んでいって、それらのシーンをまとめて一つの物語を経験する形になっている。オデュッセイアの構成はまさにシンドバッドの冒険である。というか、オデュッセイアという古典がシンドバッドの冒険などの後々の冒険談のベースになっているからこそ、そういうセットアップになっているのだ。
 
 
 
訳は、評判通りに読みやすく、美しく、力強かった。私はギリシャ古典のことを全く知らないし、他の訳を読んだこともないので、比べることはできないのだけれど、単体の本として読んで面白いと思った。
 
特に毎章うっとりさせられたのが夜明けの描写だ。元々のギリシャ語の直訳は"rosy-fingered dawn”で、それが定番フレーズとして繰り返し出てくるらしいが、ウィルソン訳では章ごとに違うフレーズになって翻訳されている。ニューヨークタイムズの書評には、こう書かれている:
 
"Rosy-fingered dawn, in this new version, takes on many minor variations. “When early Dawn revealed her rose-red hands.” “The early Dawn was born; her fingers bloomed.” My favorite rendering is “Soon Dawn appeared and touched the sky with roses.” It is so wonderfully delicate. It evokes, beautifully, the sky’s subtle changes at first light: how the colors phase in mildly, almost imperceptibly, the way a piece of white paper might blush if you rubbed it with a flower. And it is a perfect example of creative translation."
 
“薔薇色の指をした暁の女神は、この新訳では様々なバリエーションになって現れる。「暁の女神が薔薇色の手を見せたとき」「暁の女神は生まれ、彼女の指は咲き誇った」など。私のお気に入りは「すぐに暁の女神が現れ、薔薇で空にふれた」だ。素晴らしく繊細だ。夜明けの最初の光による、空の微妙な変化を美しく思い起こさせる。まるで花でこすった白い紙の色がほんのりと変わるように、ほとんど目に見えないほどゆっくりと色が変わる様子を描いている。創造的な翻訳の完璧な例だ。”
 
 
 
ウィルソンは、原文では一定のフレーズを、それが登場するシーンごとに微妙に違うニュアンスの英語に翻訳した。それによって、定番フレーズが毎回新鮮さを持って一日の幕開けを告げる。
 
翻訳は非常に特殊なスキルを要求する仕事だと思う。私は学生時代に翻訳のバイトをしたり仕事で翻訳をした経験が少しあるのだけど、やっぱり資格があるプロではないから、単語一つとっても翻訳はとても難しい。バイリンガルならゴリゴリに押して意味がまあまあ通じるようなストリート翻訳はできるけど、きちんと言葉と向き合って作品の翻訳をするのはそれとは全く違うのだ。ある言語で書かれたものを、人間の頭の中で違う言語に置き換えて、文章の形で出力するということは、一方でほぼゼロから新しい何かを書き始めているのに近いけれど、もう一方で、オリジナルをそのまま再現している作業ともいえる。ゼロからの創作と、完全コピーの間に位置する翻訳。しかもオデュッセイアは古代ギリシャという見ることも行くこともできない世界の作品なのだ。
 
エミリー・ウィルソンは古代ギリシャ語を翻訳するとはどういうことなのか、どんなプロセスを経たのか、ということを、ニューヨークタイムズでのインタビューで語っている。ここでは原文の “polytropos” という単語を例にとって、同じ単語ひとつとっても、翻訳者ごとに全く違う訳になるんだということを見せている。
 
 
翻訳がパーソナルなものであるからこそ、こういうインタビュー記事などではやはり、彼女が女性であることがこの訳にどのように影響しているのか、ということがトピックの一つになる。彼女がオデュッセイアを英語に翻訳した初めての女性だということは、多くの記事でのメインフォーカスになっている。すごく複雑なトピックだと思う。この新訳に女性ならではのオデュッセイアの読み取り方を見出そうとするレビューや、女性の奴隷を処刑するシーンの言葉の選び方にこれまでの訳とは違う視点を加えていると論じる評論など、そもそものギリシャ語のテキストを翻訳する際に入ってくるウィルソンの解釈をさらに読者が解釈するような形になり、何層にも読み取り方が重なっていく。
 
ウィルソン自身はニューヨークタイムズのインタビューでこう言っている。
 
"I do think that gender matters," Wilson said later, "and I'm not going to not say it's something I'm grappling with."
”ジェンダーは大事だとは思う。それについて考えていないとは言わない。”
 
でもまあ多くのレビューは彼女の翻訳の素晴らしさをシンプルに賞賛している。彼女が女性だからどうとかこうとか難癖をつけるようなものはあまり見当たらなかった(少しはあったけど)。私が読んだ限りでは、この新訳は、ここ数世紀の間に積み重なってきた翻訳に次ぐ翻訳による重みを一旦取っ払って、原典に戻ってそこから新しいオデュッセイアを立ち上げた新鮮なものであったらしい。
 
「らしい」というのは、私は実際に読む前に、こんなことは一切知らなかったし、他の翻訳を読んだこともなかったからだ。知っていたのはオデュッセイアが古典で、多分読んでおいたほうが良くて、新訳が最近出て、その評判がいいということだけ。そしてその状態でオデュッセイアを読んで一番感じたのは、物語の力強さだった。なんというか、有無を言わせない強さでグイグイ先に進んでいくのだ。これはやっぱり近現代の、人間の内面の問題や考えていることをじっくり見ていくような小説とは全然違っていて、そこに叙事詩と小説の違いがあるんだなーと改めて思ったりした。英雄オデュッセウスの内面描写は、ほぼ、ない。彼はどんな場面でも焦ったり自信を失ったり「もう帰るの諦めようかな」なんて悩んだりしないのだ。いつでも自信満々で、「俺は英雄で、俺にかなう奴なんていない」「絶対に家に帰る」「俺の力と賢さをもってすれば倒せない敵はない」という、強気モード一択で進んでいく。
 
(書いていて気づいたけど、これは源氏物語の源氏にも通じるところがある。源氏にも「俺はすごい」「俺は美しい」「俺はモテてモテて困る」感がずっとある。やはり恋物語だけにちょっとは悩んだりするけど、なんとなくこの自信が揺るがない感じが、これらのヒーロー二人は似ている。むしろ源氏物語において本当に悩んだり嫉妬したり苦しんだりするのは女性の方なのだ。好き勝手やってる源氏に対し、彼の恋人たちは自らのプライドや社会的地位や老いゆく自分の将来や人間関係について思いつめる。ここに源氏物語が世界最古の小説といわれる所以があるのかもしれない。)
 
これだけ書くとなんか登場人物の奥行きがなくてつまんなそうな話っぽくなるけれど、これがやっぱり名作の力で、エピソード毎にぐいぐい読めちゃうのだ。
 
物語って不思議なものだ。何世紀も前の話なのに、こんな風にぐいぐい読めちゃうということは、人間の奥深くはどうも物語に反応するようにできているんじゃないかなと思う。小説でもなんにしても。だから忙しくてしばらく本を読んでいなかったり、難しそうな作品でもすっと入り込めるのだ。多分。人間だから。

 

 

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:ホメロス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1994/09/16
  • メディア: 文庫
 

 

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者:ホメロス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1994/09/16
  • メディア: 文庫
 

 

ただいま

 
お久しぶりです。
なんとなんと、前の記事から2年以上がたってしまいました。
 
前の記事を書いたのは、大学を卒業して初めての仕事が始まった直後。その時を思い出そうとしても、うまく自分が何を考えていたのかが思い出せないくらいに、いろいろなことをこの2年間で経験しました。せっかく見つけたその仕事を一年ちょいで辞めたり、転職活動をしたり、引越しをしたり、バイトをしたり。。。もともとが世間知らずだったせいか、準備不足・覚悟不足がたたったのか、新しい環境に身を置くたびに驚きと試練の連続コンボ!みたいになってしまい、毎回目を見開いてびっくりしていたら、ヘトヘトに疲れきっていました。ブログを書く気力も無くなるくらいに。
 
でも新しい仕事が決まって、少しだけ、ほんの少しだけその仕事にも慣れてきたので、久しぶりにブログを書きたくなりました。
 
もちろん2年間忘れていたわけではなくて、たまにどうしてもブログが書きたくなり、書きかけたりしてはいたのですが、どうもまとまらずに放置してありました。2019年の途中くらいに書いた下書きがあるので、少し引用します。
 
 前回と前々回のブログをかなり久しぶりに読み返してみて、自分の変わりように少し驚きました。根っこの部分はあまり変わっていない、と思うのですが、生活に直結することに対する考え方や他人との関わり方、仕事へのスタンスなどはだいぶ変わったな、と思います。知らない異国の地での一年の経験は、私を変えてしまった、のかもしれません。自分のどこかが決定的に何かを諦めたこと、そしてその分、これまで予期してもいなかった何かに希望を持ち始めたこと、を感じます。その何かが具体的になんなのかはまだうまく言えませんが。その変化が成長といえるものだといいな、と思っています。
 
そう、前回のブログ記事を書いた時から、私は、だいぶ変わったのではないかと思います。一番大きな変化は、上に書いてあるように、何かを諦めたこと。下書きを書いたときは分かりませんでしたが、今振り返ると、お恥ずかしいことにそれは「どうしてもどうしても欲しいと思ったら、大体のものは世の中(ほとんどの場合は親)が与えてくれるし、私はそれを与えてもらって当然だ」という甘ったれた考えが通用しないことを理解した、と言うことだと思います。相当かっこつけて書いてるのにこんなしょうもないことですみません。。。こんなことを大学卒業するまで気づかなかったことがおかしいとは思うのですが、振り返ってみて、私は大学を卒業してちょびっと苦労するまでこれを本当には分かっていなかったと正直に思います。両親から遠く離れたアメリカにいて、身にしみて分かったことです。今も、完全に分かっているかと聞かれたら、怪しいかもしれません。でも経験を通じて理解したことですし、隠すのもダサい気がしたので、書きます。
 
また希望を持ち始めたことに関しては、おそらく、願えば叶うわけじゃないのだから、自分で頑張るしかない、踏ん張ろう、と思えるようになったことだと思っています。誰かが何とかしてくれるわけじゃない。ぼんやりしていた私は、なんか人に言われたことをきちんとやってれば人生うまくいくんじゃないか、と思っていたきらいがありましたが、今になってそれではどこにも行き着かないと気づきました。大学までは、受験もうまく行ったので、自分は踏ん張るのが上手だと思っていたのですが、まだまだ力が足りないです。レールの上を走っている間は振り幅が完全に定められているので、そこから外れなければいいけれど、社会、特に人のつながりのほぼない外国の社会に一人で放り出されて(というか闇雲に出ていって)ここで踏ん張るのは結構大変だな、と当然ながら思いました。これも、完全に理解しているかは正直まだ何とも言えないのですが。自分でできそうなら踏ん張ってみる。きつかったら休憩して、自分から助けを求める。そうやって休み休み進んでいきたいです。
 
仕事を辞めて無職になったり、病気になったり、絶対に嫌だと思っていたリクルートスーツを着てたくさんの面接にいったり、ありえないと思っていた業界に転職したり。この数年、これまで順調にレールにのってきた自分の人生からしてみると全く想定外のことをいろいろとしました。正直、今いる場所についても完全にしっくりとはきていないです。でもここ数年を経て今考えているのは、本当にしっくりとくる環境というのは自分で試行錯誤して見つけるもので、天から降ってくるものではないのではないかということ。そして天から降ってきたようにみえる、うますぎる話は、よくてからっぽか、悪くてうそっぱちであることが多そうだということ。自分の手でつかみとった感触のあるものだけが本物だと、今は思っています。
 
あまりに長いことレールの上を順調に走っていたので、まだ新しい環境、この社会というもの、会社という環境になかなか慣れない部分も多く、日々驚くことがいっぱいあります。自分の価値観も、ぐいぐい変わっているのを感じます。言語化が追いつかないくらいに。でも何にせよ、何らかの答えを出すにはまだ程遠い段階にいるような気がします。
 
とても正直なことを言うとまだ混乱中なので、このブログに書くことも二転三転してしまうかもしれません。記事も書いたり、書かなかったりするかもしれません。でも、二年間のブランクに怯えずにとにかく書き出そうと思いました。できれば、本の感想とかもまた書きたいなと思っています。
 
よろしくお願いします。
 
 

働きはじめました    

 

お久しぶりです。前回の投稿から7ヶ月もたってしまいました。

 

この七ヶ月で色々なことがありました。友人と始めたプロジェクトは頓挫し、異国での大学卒業一ヶ月前になって住む場所も仕事も全くアテのない状態になり、とにかく日本に帰りたくない一心で両親に当座の生活資金を借金し、サンフランシスコのベイエリアに引っ越してきました。そして就職活動を数ヶ月、現地就職のみに絞ってした結果、先月末に無事内定をいただくことができて、二週間前から働きはじめました。というわけで今は学生ビザを延長して、カリフォルニアに住んでいます。

 

就職したくないと前に書いたのは本音だったけれど、生きていくにはお金が必要だということがよーく分かりました….幸いなことに日本語も英語も活かせて、書くことがメインの楽しいお仕事をご縁があっていただくことができたので、ラッキーでした。本当に運の良さだけはピカイチだと思っています。

 

考えていたことは山のようにあるんですけど、7ヶ月分もたまると難しいですね。

 

前回の記事でやりたいことを探していると書きましたが、まずは書くことから始めてみよう、ネット上で書くのと読むのは大好きだから、と思い、ワードプレスで意識高めのブログも作ってみたりしたんですが、ブロガー界隈のあまりのきらきら度合いについていけなくなってしまいました。正直はてながちょっと恋しかったです。うーん、でもワードプレスの扱い方とかpvとかを勉強するのは楽しかったし、最初からペースをかっ飛ばしてきらきらさせようとしすぎたことが原因かもしれないので、トーンダウンして続けてみたいなーとは思っています。

 

なんか、どうしようもないことを書いているみたいでごめんなさい。あまりに長いこと書いてなかったので何を書いたらいいのかわからなくて。

 

新しくワードプレスでブログを開設して思いましたが、つくづくブログって、面白いです。

 

特に読者が少ないこのブログでは、祈るような気持ちで、無人島から空き瓶に詰めた手紙を海に送り出すような気持ちで書いています。誰が読んでくれるかもわからないし、いつまでも読まれないかもしれないのに。それでも、誰かが読んでくれることを前提として、誰かに語りかけながら書いていく。

 

ワードプレスでのブログに私がちょっとビビってしまったのは、きらきらすることに疲れただけではなくて、積極的にツイッターと連携させたりアナリティクスツールを導入したりした結果、実際に誰かに読まれたということかもしれません。

 

祈るように書いているうちは、自分の書いたものは100%自分のものだけど、読んでくれた人がいる、とわかると、その瞬間から私が書いたものは他人のものになるような気がして、そうするとなんだか新しい記事を書くのにもとてつもないプレッシャーを感じてしまいます。誰かが読んでくれるということが、最初は面白くて仕方がなかったけれど、すこしずつ記事が溜まっていく中で、それが少し怖くなってしまいました。書いて、公開すると、誰かが読んでくれる!読まれないにしても、みられている!

 

書くものは、できれば自分の本音でありたい。嘘偽りのない本音を、正直に書きたい。

 

でも、誰かに読まれることを意識した途端に、「当たり障りのないように書かなきゃ」「矛盾がないように書かなきゃ」「誰も不快にさせたくない」「嫌われたくない」なんて色々と考えてしまって。

 

この二つを両立させるにはそもそも自分の性格を見直すところから始めた方がいいんじゃないかな、とか考えてしまい、前に進めなくなっています。

 

本当はここで、でも私は本音を書き続けるんだぞーといえたらかっこいいような気もしますが、気弱なのとストレスを抱え込みたくないので、どうしたらストレスなく楽しく書き続けられるかを考えたいと思っています。

 

仕事を始めたり新しいアパートを選んだりしてわかりましたが、ストレスが軽いということが私にとっては最優先です。ほぼ最優先。

 

現在の仕事も、すごく楽しいし、英語の職場って無駄に気を使うことがほとんどなく、ストレートに考えたことを言うことが求められるので、ストレスがかなり低いです。もちろんニュアンスも相手への気遣いも大事ですが、ロジカルに伝えることが大事なので、要点をリストアップして、後はそのプレゼンの仕方を考えるだけ。でも逆に日本語の業務メールは細かいニュアンスや気遣いが、送られてきたメールの節々から感じられるので、要点よりもニュアンスや敬語の程度を考えてしまい、一本のメールの返信にいちいち時間がかかってしまいます。母国語だからかもしれませんし、日本の文化かもしれないし、どちらかはわかりませんが。多分両方だと思います。

 

住む環境も、私は都市部よりも郊外の方が好きだということがわかりました。都市部は刺激が多すぎて、空気も悪いし、身の安全に絶えず気をつけていないといけないので疲れます。小中高と東京で過ごして、てっきり自分は都会っ子だと思っていましたが、一軒家が立ち並び子供がボールを転がして遊んでいる郊外の方が落ち着いて息をすることができるような気がします。夕方に近所の散歩をするのが楽しいです。

 

またこれまでは親におんぶに抱っこだったので、両親の許可や相談が必要なことがどうしても多く、そこがちょっとストレスになっていたこともありました。英語を習わせ、海外進学を応援し、多額の学費を払ってくれた両親は素晴らしいです。本当に。私がカリフォルニアに住めていることも両親の支えなしではあり得ませんでした。それでも、年をとるにつれどうしても会話が辛かったり、私の意見や思いを無視されているように感じたりすることがありました。言葉ではなく、学費を払ってくれたというその行動こそが大事だということは重々承知です。この子は恩知らずでわがままだ、と言われても仕方ないと思います。無責任で世間知らずな選択を色々としてきたことも事実です。本当はこんなこと書いたらいけないのかもしれません。私が今持っているもの、学歴や能力や人柄などは全て両親が時間とお金をかけて準備してくれたのも事実です。でも私もやっと社会人になって、自分の家賃も食費も携帯代もクレジットカード代も全部自分で払うことができるようになったので、せめて後は借りたお金をできるだけ早く返せるように頑張りたいと思います。確定申告も、保険も、投資もクレジットカードの申請も、全部自分でできるようになりました。後は自炊と丁寧な掃除、でしょうか…

 

すみません。親の話って本人にとっては大事でも他人にとっては割とどうでもいいことが多いですよね。私もそう思います。もう大学卒業したので、このトピックにはいい加減けりをつけたいなと思っています。

 

なんかストレスフルな話題になってしまったので、話を元に戻すと、色々あったけれど私はなんとか無事でやっています、と言う感じでしょうか。新しいアパートは狭いけれど日当たりが良く、カリフォルニアのさんさんとした太陽の下で洗濯物を干すのがたのしいです。お仕事も小さいチームで、ロジカルな人々と働けているので楽しいです。毎日学ぶことがあります。オンラインで自分の書いたことを祈るように載せる場所もある。毎朝コーヒーが飲めて、夜は低反発まくらで頭を休めて寝ることができる。人生は、現時点ではとてもいい感じです。

 

変わらないといけない

 ついに四年生の春学期。そろそろ卒業が近づいてきました。

 

前の記事で、「就職したくない」と書きましたが、少し進展がありまして、起業することにしました。

annica.hatenablog.com

 

起業といっても、いきなり会社を設立するのではなく、シリコンバレーでいういわゆるスタートアップを始めるので、プロセスとしてはとにかくプロジェクトをやってみて、ユーザーを増やして、軌道に乗りそうだったら会社設立、うまくいかなかったら方針転換してまた違うプロジェクトで試す、という試行錯誤のスタイルです。リーンスタートアップ、ともいわれるモデルです。プログラミングができる親友にさそわれて、彼が実際のコードを書き、私が宣伝やビジネスの管理、二人で話し合いしながら方針を決めつつ進める、という形でやっています。一ヶ月前に1つ目のプロジェクトを始め、それが失敗したので、今はその反省をふまえて2つ目の企画中です。一年後くらいには何かを形にしたい。

 

でも今回の記事ではプロジェクト自体の話ではなく、起業するにあたって、分かったこと、考えた事があったので、書き記しておこうと思います。

 

まず、大前提として、私は、大学四年生までぐずぐずと何にも将来について考えないできたということが今回よーく分かりました。もちろん夏にはインターンシップをやってみたり、出版業界で働きたいと思ってみたり、ちょっとはしたのですが、それも所々で必要に迫られて考えるのみで、本当に自分が何かをするんだという実感があったわけではなかった。その結果今回のプロジェクトも割とぐずぐずとして、やるといったのに、上手くいかないとやっぱり仕事を探した方がいいんじゃないかとか思ってしまって、決心が弱くて。

 

それでどうしてそうなのか考えてみたところ、おそらく、理由は二つあるんじゃないかと思いました。

  1. 何をやっていても、「で、だから何?」と思ってしまう。人生の目的意識が見いだせない。
  2. 何をやっていても、「やりたいからやっている」ではなくて、「やりたいと思わないといけないからやっている」感じがする

 

二つは密接に関係していると思うんですけど、一つずつ分けて考えたいと思います。まず一つ目からですが、これは「達成したい目的がない」みたいな話じゃなくて、「人生そのものに意味があるのか」という問いで、ここ半年くらいずっと悩んできた事です。人生の意味がわからない。何もかもの意味が分からない。なんと言うかぐるぐるとした問いで、何のためにやっているのか分からないけど、とにかく目の前に学校の課題やら就職の準備やらやらなくちゃいけないことがあるからやる、そうするとこれが生きる意味、みたいな気はする、でもそんなわけないだろうという気もする、結局何のためにやっているのかは分からないまま時がたつ。

 

「人間の人生に意味はあるのか」「私の人生に大きな使命みたいなものはあるのか」これは昔から人類が考えてきたことだと思います。私も、ちっぽけな女子大生だけど、そういうことを考えて、で、考えても考えても、答えが出なくて、もしかして人生に意味なんてないんじゃないかな、って考えるようになりました。もう何百万年も人類存在してるんだし、こんなに根本的な問いで、古今東西の先人が考えても「これだ!」という答えが存在しないからには、もうこれは人生に意味なんてない、もしくは意味はあっても人間の脳では答えにたどり着くことができないんじゃないか、と。宗教はそういう根本的な問いに対して、「それはね、こういうことですよ、そう神が言ってますよ」みたいな答えを与えてくれるもので、だからこそこんなに世界中にいろんな宗教が存在し、それを信じる人がいるんじゃないか、と考えています。

 

でも私は特定の宗教を現時点では信じていません。大事な問いだから、間違っていてもとにかく自分で答えを出したい、と思ったからです。でも悩んだあげく、このままじゃどうしても先に進まないので、結局は全て無意味なんだと仮定することにしました。こう割り切ってしまうと、死ぬのは痛いからとりあえず生きておいて、生きている間は出来るだけ楽しめればいいな、という方針が立ちました。ここまでくるのにすごく時間がかかった。

 

じゃあ、出来るだけ楽しむとして、何を具体的にするのか。なにしたらいいのか。ここで、上にあげた二つ目のポイントが出てくるんですけど、これまでを振り返ってみて、すごくやりたいからやった、必死にとりくんだ、みたいなことが一つも思い出せなかったんです。今やっていることを考えてみても、なんだか、「すごくやりたいからやった」というよりは、「やりたいと思わないといけないからやった」「なんかやってみた方がいいかなーというノリでやった」みたいなことばっかりでした。正直、文学専攻も、すごく興味があって決めたわけじゃなくて、他にこれ以上興味があることもないし、小さい頃から本読むの好きだったし、くらいの気持ちで、大学生になった今は大して本も読まないくせに専攻を決めました。だから未だに、専攻を決めて2年もたつのに、「文学について学ぶ意味はなんだろう」とかずっと考えていて。自分が何を得たくて文学を学んでいるのかいまいちよくわからないんです。いや、確かに人生の何もかもが無意味と仮定はしたんですけど、でも自分がとりあえず生きていく上での目標みたいなものや、自分なりの世界の成り立ちの理解は構築したくて、そのなかで自分のやっていることに意味はあってほしくて。でも根本的にやりたいことがないから、それもないままだらだらと授業をとって、課題をこなしながら大学四年生になってしまった。

 

唯一、アメリカに学部留学したいという決断は、ものすごく行きたいと思って決めました。でも今振り返ってみると、アメリカで何かをしたいというよりは、このまま日本にいてはいけない、という猛烈な危機感からした決断で、行けば何か変わるだろう、と期待して来てみた結果、私は何もまだ変わっていない。趣味もないしはっきりした興味もない。

 

小さい頃から、私は優等生でした。試しに受けてみた日能研の実力テストで成績がよかったからとんとんと中学受験して、進学校に入って、成績も割といい方を維持して、国立大に合格して半年だけ通って、そこから留学。もっと小さい時は本を読むのが大好きだったんですけど、受験が忙しくなるなかでその習慣も消えていきました。そのおかげで与えられた課題をこなすのがすごく得意になった。期末テストも課外活動も、与えられた課題をそつなくこなし、他人にすごーいと言われるまでが全てだったから、正解のある課題にしか取り組めなくなって、次第に自分の振る舞い方や考え方までも課題として捉えていたんだな、って今週くらいにやっと、やっと気づきました。むしろ、自分のやりたいようにすることや、素直に何かを好きだとか嫌だと感じることに罪悪感さえ抱くようになっていました。

 

そしてここになって、将来を課題として捉え始めたところで、先に進まなくなりました。この課題はさすがに自分の意思をもって決めたいと思ったからです。就職先を他人の目線ありきで決めたらアンハッピーだろうなくらいのことは分かったので、コンサルとか銀行には行きたくない、でもかといってこれまで自分の意思で何かをやった経験が少な過ぎるのでやりたいことがない、出版にいきたいのかどうかも分からない、とにかくリクルートスーツは着たくない、のわがままばかりで、一歩も前に進めない状態がしばらく続いていました。自分のスキル一本で食べていける仕事に魅力を感じているのは分かっていたんですけど、具体的になんなのかも分かっていませんでした。

 

だからがっちりと就職をせずにとにかく何か仕事を見つけて、何年か自分のやりたいことを考えよう、みたいに思ってたんですけど、ビザ的にそれは難しいことが分かって、それでも日本には帰りたくない。もうむちゃくちゃでした。考え方が甘くて。

 

そこでもって友人にスタートアップをやろう、と言われたから、よしやろうかな、くらいの気持ちでうんと言ったんです。覚悟が甘かった。一ヶ月目が終わって、友人には「僕は共同経営者が欲しかったんであって、社員を雇ったわけじゃない。社員になるつもりなら抜けてくれ」と言われて、がーんってなりました。スタートアップも、まあ自分でやりたいと思ったわけじゃないし、面白いプロジェクトだとは思うけど、とにかく必要そうなことをやって、自分のやりたいことが分かるまで時間をすごそう、みたいな心持ちだったことに気づかされました。だから仕事への取り組み方もなあなあだった。友人にもプロジェクトにもすごく失礼な態度でした。

 

一番の問題点は、私にとってやりたいことがなかったことです。人に課題を与えられることに慣れすぎて、自らの意思に従って課題を設定し、計画をたて実行する力が全くないままここまできてしまった。だから何もかも「まあやっとくか」みたいな態度になってしまう。

 

そのことが分かった今、必死に、やりたいことを考えています。これまでやってみて、面白いな、と思った事はなんだろう?どうして?って。今更だけど。すっごく情けない。でもやっぱりちょっとくらいはやってみたいこととか、嫌だから避けたいと思う事があるのが救いです。無意味なりに楽しいなー、と納得のいく人生を送りたかったら、今頑張らなくちゃいけない。と思って、考えています。

米国留学生からみた大統領選挙

誰もが予期しなかった選挙から数日がたち、少しずつ生活も落ち着いてきて、トランプ氏が次期大統領になるということが現実味を帯び始めてきたので、考えている事を書こうと思います。

 

火曜日の夜はショックすぎて何がどうなっているんだ、という感じだったのですが、数日たった今、とにかく現実を解釈して、次どうするかを考えなくてはいけない、と思っています。

 

今回の選挙結果を受けてひしひしと感じたのは、まず、自分はよそ者なのだ、という事です。この三年間、すごくリベラルなキャンパスにいたこともあって、何となく自分は歓迎されているような、留学生ではあるけれど、アメリカという国の一員であるかのような、そんな気がしていました。実際にこのキャンパスでは多様性を非常に重視しているので、この三年間はとても居心地がよかったです。だからこそ、将来はアメリカで就職したい、ビザをとるのが厳しくても、なんて思っていたのです。

 

でもトランプ氏が選挙に勝ったのを見て、自分の見ていたアメリカがいかに狭かったかを思い知りました。私にとってアメリカは、東海岸のリベラルアーツカレッジのキャンパスのみだった、というのが嫌という程分かりました。実際、私はトランプ支持者を一人も知らなかったし、周りの人たちはだいたいが予備選ではサンダース氏、本戦ではクリントン氏を熱心に支持していました。フェイスブックやツイッターでトランプ支持者の書き込みを見ても、何だこの人たちは、何考えてるのかさっぱり分からん、といった感じで、彼らの住んでいるアメリカは本当に別世界のようでした。

 

大手メディアも、私の見ていた狭い世界の一部だったということが分かりました。私は毎日ニューヨークタイムズをチェックしていたのですが、11月7日、クリントン氏の勝率は84%になっていました。その日の朝刊を読むと、クリントン氏に関する記事は楽観的で、まるで勝利は当然かのように書いてあるのに対し、トランプ氏に焦点をあてた記事は一人寂しく、見込みのない戦いで消えてゆく敗者の最後の一日、といった雰囲気で書いてありました。それはもう当然クリントン氏が勝つに違いない、と思っていたのですが、8日の夜、勝率のグラフがどんどん様変わりしていくのをみて、世界がめちゃくちゃになっていくような感じがしました。

 

 

私が日本人なのにまるで自分のことのように選挙結果にショックを受けているのは、実際にこの選挙は自分のことだからです。トランプ氏は移民に対して怒りの矛先を向けて、メキシコ移民やムスリム教徒を追い出すことを公約(というか、口約束?)にして選挙に勝ちました。実際に私が欲しいと思っていた就労ビザや、グリーンカードのシステムも変える、と言っています。私が住みたいと思っていた国は、実は移民が歓迎されない国だった。彼が選挙に勝った事で、マイノリティに対して暴言を吐くことや、出身国と肌の色を理由に差別をすることが問題ではないかのような風潮ができてしまった。

 

今、トランプ支持者の人たちの書いた記事を出来るだけ読んで、彼らが何を思っているのか、知ろうとしています。よく見かけるのは、「私はトランプに票をいれたが、だからといって私が人種差別主義者なわけではないし、外国人が嫌いなわけではないし、女性の権利がどうなったっていいと思っている訳ではない。トランプ支持者だからといってラベルを貼らないでほしい。」というものです。でも私はその論理の理解に苦しみます。だって、彼は「メキシコ人の血が入っているから裁判で公正な判断が下せない」とか「カーン夫妻の妻はムスリム教徒だから発言する事を許されなかった」とか「スターだったら女になんだってできる」とか言ったのに。そんな人を大統領にするということは、そういうことを言ったりやったりしてもたいした問題はない、と考えているということと一緒なのでは?またよく見かけるのは、「彼は選挙中だったから勝つために適当なことを言ったけれど、実際に大統領になったらきちんと働いて、貿易や外交や税制を改革して私たちのために働いてくれる」という、彼の言葉と行動を自分に都合良く切り離す主張です。でもこれも論理的におかしいと思います。そもそも適当なことを言う候補だと思っているなら、何を信じて票を入れたんでしょうか?むしろ何もかもが適当なんだ、貿易も外交も、と思う方が妥当じゃありませんか?論理で説明できない票なら、いったいなぜ人はトランプ氏に投票したのか。

 

ここ数日で、なぜ彼が勝ったのかを分析したいろんな記事を読みました。エスタブリッシュメントにファック・ユーというためにトランプに票を入れた人が多かった、という分析や、何かしらの変化が欲しかった、という分析や、黒人の大統領への巻き返しだった、とか。色んな理由がからみあった勝利だったと思います。私としてはこの記事の分析が一番腑に落ちました。

 

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いったん政治や経済のコンテクストを越えて話を広げるとすれば、私が今回の選挙で学んだのは、結局のところ、人は他人でも国全体でも論理でもなく、自分にとって何が大事かを考えて票を入れるんだな、ということだと思います。政治や経済のプロではないので、本当に素人の未熟な考えになってしまいますが。

 

確かに、私が白人で富裕層だったら、アメリカに都合のよい政策を実行してほしいだろうし、その引き換えにマイノリティが多少差別されたって、自分が困る事は特にない、と本音では思うかもしれない。白人ばかりのコミュニティで育って、そんな中で移民が引っ越してきていい仕事につくのを見たら、追い出せと言いたくなるかもしれない。「女性だけどトランプに投票した」という人は、もし彼が大統領になって、例えば中絶を違法にしても、自分はそんなに迷惑を被らないと思ったんだろうと思います。それよりも私にとって大事なのは、経済の立て直しだ、と思ったのかもしれない。私がこんなにトランプ氏の勝利でショックを受けたのは、もちろん自分の現実認識が覆されたからというのもありますが、彼の言動が私個人にとてつもない被害をもたらすからというところも大きいです。でも私にとって大事だったことは、他の人にとっては必ずしもそんなに大事じゃなかった。私がアメリカのコアだと思っていたこと – 移民の国、多様性を重視し、誰でも夢を追いかける事が出来る自由の国 − は実際はアメリカ全体にとって一番大事なことではなかった。当然のように、アメリカは、日々生活し、不況に悩まされ、犯罪をニュースで目にし、家計簿をやりくりするので精一杯な人々が暮らす普通の国だった。理想ではなく、現実にもとづいて、人々は票を入れた。それがクリントン氏であれ、トランプ氏であれ。そんな当たり前のことを民主党と共和党の両方が見落としたことが今回のサプライズ選挙につながったのではないでしょうか。

 

アメリカを離れて考えてみれば、イギリスのBrexitやフランスでの極右政党の台頭など、世界的に反グローバリズムの波がやってきているような気がします。人がまず自分の利益不利益を重視するのなら(それは当然だと思います)、グローバリズムは多くの人々の利益を置き去りにしてきたのかもしれない。今、その不満の声が噴出しているのかもしれません。

 

多様性を重視しようという考え方は、昔から人間社会に当然のようにあった考え方ではなく、グローバリズムの波に合わせて出てきた時代特有の考え方だった、ということがここ数日でやっと見えてきました。アメリカで大学教育を受けたので、多様性の重視は当然のことかのように考えていましたが、そうじゃないですよね。就職の記事にも書きましたが、中世ヨーロッパの騎士が多様性を重視しよう、なんて言っていたとは思えないですよね。

 

もしもグローバリズムに逆流するような政治が主流になったとしたら、多様性を重視する風潮も消えてゆくのかもしれない。政策も、経済も、貿易も、自国優先が正義になるかもしれない。トランプ氏の勝利はその一部だった、そんな気がします。もし世界全体がそういう方向に向かっているとするならば、自分の利益を優先する個人として、私はどこの国で、何をすればいいんだろう。選挙の結果が出た今、これまでになかった危機感を持ってこれからの日々を過ごす事になると思います。

アメリカの大統領選をうけて

大統領選が終わりました。結果が出る数時間前までは絶対にヒラリーだろうと安心して図書館で勉強していたのですが、投票結果が出るたび、フロリダの色が変わるたび、心配がどんどん募り、結局ぎりぎりまで画面にかじりついていたので、寝たのは2時過ぎでした。夜中、トランプが大統領になった、という悪夢をみて目が覚めて、朝起きたら現実になっていました。今日のキャンパスはお通夜のように静かです。私はアメリカの何を見ていたんだろう。トランプは、移民を減らすにあたって、就労ビザとグリーンカードを廃止したいそうです。一年先の未来が全く見えなくなってしまいました。以下、英語ブログに書いた記事ですが、どうせならこちらにも貼っておこうと思いました。もうちょっと冷静に考えられるようになったら、日本語で書こうと思います。

 

I’m stunned, I don’t know where to begin. It’s a sinking feeling – so many things are running through my mind and heart right now, and I hope, I just hope that writing about it will help me process what is going on and move forward.

 

First off, I now know that the America I knew was only a fraction of America. Not just the campus of a liberal arts college, the media as well. All I thought was America was apparently an elite crust that many others resented and wanted to destroy. It seemed that I lived in a happy echo chamber consisting of people who are at least willing to understand other people’s positions through rational discourse, or who, after years of hurt, had the courage to stand up and fight for their rights. A group, albeit diverse in background, consisting of people who are well-educated. All I knew of America was of people who at least could see through the consequences of a political vote. And that was the America I liked, that was the America I wanted a place in. Today I know that I am not welcomed by the majority of Americans. I am reminded that I am a mere visitor, that I came here to study abroad, that as an Asian person I am not welcomed in a country created by white people. They elected a president who wants to halt immigration and discriminate based on a person’s color of skin or religious beliefs.

 

I now see that America really is a project; that it began as a huge social experiment that has been created by the hands of those participating in it. Human rights are something to be fought for, not granted. I never, I think, knew that. Seeing an entire people lose a fight in front of my eyes was enough to understand that not everything is given. Progress is not natural; it is truly a human made concept, built through hundreds of years of experience and blood shedding. Yesterday, half the American population wanted a world that they lived in the past, or at least, something different from what they saw as progress that left them behind. How else can I make sense of the election where people voted against gay marriage, gender equality, women’s rights, racial justice, environmental change, and so much more? What are America’s values, I wonder – where were the core principles that all the politicians said Trump sabotaged? Did it even exist in the first place if half the people voted against it? I am so confused about this country right now. If about half the people wanted a country that is made up of white people and consumes only things made in the United States, well, sure – but that certainly goes against everything that the world thought the United States was about. We all thought America was about progress, about pursuing justice and freedom. Freedom; freedom only for a select few that looks and thinks in a similar manner to the president?

 

In a climate where immigrants are not wanted, I am not wanted. I see that now. I am disappointed in this country. I need to see what Trump actually does as president, if he really can destroy 240 years worth of history. But if he does, if he does want to destroy everything, I don’t have a place here. Heck, I don’t even get to participate. I’m a visitor with a student visa.

 

Until now, I took my place in the United States as granted. Yes, I am an international student, but I’m a college student – I wanted to stay here after graduation, and was hopeful that eventually I will get a work visa, and then a green card. I thought, foolishly, that America would welcome me with open hands as a country founded by immigrants. No, no, no. I was just starting to understand the racial divide in this country and the meaning of the color of my skin when Donald Trump was elected president. I didn’t see my place. I now feel thankful, even nostalgic, for the America that showed me for three years an illusion of an inclusive, welcoming, free country.

 

So what do I do now? Now that international politics is involved, this is no longer a question of principles for me. This is a matter of safety. As much as I like America, what it showed me last night was not the America I thought I lived in. I don’t know if I want to stay here anymore. Thankfully, I have a choice. This is an immense privilege, something that those who were born here and have a home here don’t have. I need to make my choice wisely.

 

And if I do choose to stay here, if I want a place here as my own, I now know that I need to do my fair share as a member of this boat. I need to be fighting for my rights, and I need to understand the consequences of each fight. Not just in the United States, though – after last night, I know what democracy looks like at its raw core. I need to recognize that the world is in our hands, in my two small hands, along with many others’ with various shapes and color. This is our world, and we will live here as long as we can fight for ourselves.

大学4年生だけど就職したくない

 突然ですが、就職したくない!!!

 

「したくない」だとかなりわがままな感じだけど、より正確に言えば、「なぜ就職しなければいけないのか」が分からないから、と言うのが本音です。

 

「就職する」という言葉だけなら分かる。けれど、現在の日本社会で「就職する」という言葉には、「大学を卒業する前から企業を探し、企業のしている事業と自分の価値観を擦り合わせ、念入りな準備を何ヶ月もして、採用プロセスを経て企業の一員となる」というところまでが含まれた概念になっているようです。

 

そもそも、なぜ大学を卒業したら仕事につかなければいけないのか。多くの場合、就職はレールの上の次のストップの1つになっているような気がします。高校を卒業したら大学に入る。大学に入ったらサークルに入る。大学を卒業したら就職する。レールが敷かれているのがダメだとは思いません。レールがあれば、多くの人の人生が上手に統制され、社会も安定するように思います。でも、そもそもそのレールが想像上のものならば、レールの上を走るのも、レールを外れるのも自由なんじゃないか。なぜレールの上で走り続けなければいけないのか。と、大学に進学する時点で少しだけレールを外れた私は思うのです。

 

また、就職サイトのあちこちで見受ける、「世界を変える」「社会をよくする」という言葉。社会をよくする…私にはどうもふわふわしていて、よく分かりません。

 

そもそも、社会のためにという考え方が、非常に現代に限られた考え方ではないかと思います。留学してみて、ある文化で絶対とされている価値観が他の国では存在すらしない、という事実を目の当たりにしました。「常識」「こうあるべき」みたいな考え方は非常にうさんくさいです。歴史の授業をとってみて痛感したけれど、国や文化だけでなく、時代にとっての常識も、100年程さかのぼってみれば簡単に崩れ落ちます。例をあげてみれば、奴隷制度は長らく当然のように存在していました。アリストテレスは奴隷制度を当然のこと、と書きましたが、今では公でそんなこと言うのはありえません。同じように、例えば中世ヨーロッパの騎士とかが「社会のために働く」なんて言っていたとは、どうしたって思えません。それならば何のために働くのか。なぜ働くのに「社会のために」という大義名分が必要なのか。なぜ働く=企業の一員になる、なのか。時代が変われば人の考え方が変わるのは当たり前です。常識が国によって違うのも、当然のことだと思います。でも、私はそれに縛られたくない。

 

私は、社会よりも自分のことを優先したい。どうせ死ぬんだから。なにやったって、どんなに批判されたって、どうせあと60年くらいしたら死にます。心から信じられるプリンシプルのような何かがほしくて、ゆるがない真実はなんなのか、そもそもそんなものはあるのか、をずっと考えてきました。まだ答えはないけれど、前よりは考えがクリアになってきた、と思います。1つ分かるのは、社会の常識のようなもろいものをプリンシプルにはしたくないということ。突き詰めて考えた時に自分が信じられるものを最優先して人生を生きたい。

 

当然、こういう私の考え方も時代に規定されているのだろうとは思います。1990年代の日本で生まれたからこそ、大学時代に留学ができた。多少は自由がきくような風潮の中でこれまで過ごしてきたからこそ、私は自分を優先したい、なんて考えが思い浮かぶような22歳になったんだろうと思います。周囲に影響された部分も多分にあるので、これも時代の風潮なのかもしれません。それでも。時代を越えて受け継がれてきた本を読み、人間とは何かを問い、変わらない真実はなんなのか、を考えることでここまでたどりついたからには、同じように考えた人が、きっと、何百年も昔にもいたんじゃないだろうか。少しは、普遍的ななにかに近づいているんじゃなかろうか。というか、私が当然だと思う事が他の国や時代では当然じゃないのでは??って、ちょっと考えればすぐ分かることのような気がします。

 

仕事がしたくないわけではなくて、むしろ、仕事はしたいです。職業につきたいとは思います。願わくば、何かのプロになりたい。留学する時の目標は、自分の二本足で立って、自分の頭で考えられる人になることでした。大学を卒業したら、これに、自分の力でお金を稼ぐ、を付け加えたいと思います。胸をはって、私はこういうことができます、と言えるようなスキルを身につけたい。そして、すこしでも何かの価値を生み出せるような人になりたい。できれば、何百年も昔からすでにあったような、人間にとって根本的な部分で変わらないような職業を選びたいと思っています。

 

そのためには、まだ学ぶべき事が山積みで、まだ仕事をしたいという気にはなれません。考え方も弱いし、知らないことが多すぎる。卒業したら、とりあえずは適当な仕事を見つけて、生活できる程度のお金を稼ぎながら、自分のために時間を使いたいです。ゆくゆくは自由が欲しいです。しばらくの間はきついかもしれませんが(しばらくじゃなくてずっとの可能性もあり)自分で決めた事なら本望だと思います。

 

というわけで、就職したくない!!!けっこう暴論になった部分もあったかと思いますが、卒業がせまる今、こんなことを考えています。私個人の経験にもとづいて考えているので、だいぶ視野も狭いと思います。結局は現実に負けちゃうかもしれないし。でもだからこそまだ学ぶことがたくさんある…と思っています。